top of page

近くて遠いアジア。アジア最後のフロンティア、ミャンマーのことをもっと知りたい



激動の21世紀を生きるミャンマー。ニュースで見る光景は、私たちの現実からかけ離れた遠い国の出来事にも思えますが、実際はどんな国で、どんな人々が暮らしているのでしょうか。今回は、食やカルチャー、観光など身近なテーマから、歴史や宗教、現在進行中の政治問題まで、ミャンマーについて多角的にご紹介します。


目次


 

どんな人たちが住んでいるの?


インドシナ半島の西部に位置するミャンマー。縦長の地形で、タイ、ラオス、中国、バングラディシュ、インドに国境を接しています。多民族国家であることでも知られ、小さな民族も含めると全部で135種類存在すると言われています。生活様式は民族によって異なり、湖上や山岳地帯で暮らす人々もいます。一番大きな民族は、国民の7割を占めるビルマ族で、国の共通語も彼らが話すミャンマー語(ビルマ語)です。学校教育もミャンマー語で行われているので、国民に広く浸透していますが、地方によって話されている言葉が変わることもあります。古くからの伝統や素朴な生活を大切にしている民族が多く、多様な文化が残っていることもこの国の魅力です。


 

宗教



ミャンマーでは、約9割が仏教徒で、日本の大乗仏教とは異なる上座仏教を信仰しています。大衆の苦しみを救うことを目的とする大乗仏教に対し、上座仏教は、輪廻転生を信じ、各自がブッダの教えを守り、悟りを開くことを目的としています。そのため戒律が厳しく、熱心な仏教徒が多いのが特徴的です。信者は、僧侶に普段の食事を布施し、祈り、説法を聞くのが日常で、子どもから大人まで、仏教は暮らしの一部として自然に受け入れられています。一方、少数民族の中には、他の宗教を信仰している人々もいます。他宗教は主に、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教で、大きな都市では教会やモスク、ヒンズー教の寺院も点在しています。


 

有名な観光地



周辺の国と比べても寺院の数が圧倒的に多いミャンマー。最も有名な観光地は、世界三大仏教遺跡のひとつでもある「バガン遺跡」です。約40kmの平野に、数千ものパゴダ(仏塔)が林立する光景は壮観で、王朝時代にタイプスリップしたような感覚になります。ミャンマー中央部の高地にあるインレー湖も、観光客に人気のエリアです。風光明媚な景色の中に、水上村や水上家屋など、素朴な民族の暮らしを垣間見ることができます。また、ミャンマーといえば、最大都市ヤンゴンの「シュエダゴン・パゴダ」も有名。丘の上にそびえ立つ黄金色に輝く巨大なパゴダ。全長100メートル、周りに60余りの小さなパゴダがひしめく様に、仏教信仰の熱量を間近に体感することができるでしょう。


 

ミャンマーの食事事情



ミャンマーの人々の主食は米で、野菜や肉(または魚)のおかずにスープがつくのが一般的な家庭料理です。おかずは、ご飯をたくさん食べるために濃く味付けされたものが多く、特にビルマ族は油をたくさん使ったカレーのような料理をよく食べます。また、モヒンガーと呼ばれる米でできた麺料理は、朝食の定番メニューで食堂でも人気です。地域によって食文化に違いがあり、中国、タイ、インドなど隣国に影響を受けた料理が多いのもミャンマーらしさ。内陸部のシャン州では、ビルマ料理よりもさっぱりとした料理が好まれ、お茶の葉を漬物にしてサラダのように食べる習慣もあります。


 

ミャンマー人の美の秘訣、「タナカ」とは?



ミャンマーでは、顔にチョークのような白いものを塗った子どもや女性をたくさん目にします。一見異様な感じもしますが、白いものの正体は、「タナカ」と呼ばれる化粧品。タナカとは木のことで、木の皮を水と合わせてこすり、クリーム状にしてから顔に塗ります。顔につけるとひんやりした感触で、日焼け止め、オイリー肌の予防、毛穴の引き締めなど、さまざまな効果があるのだそう。頬の上に絵や模様を描く人も多く、塗り方も個性的。ミャンマーの人にとって、タナカは美容に欠かせないものであるだけでなく、自身をおしゃれに演出するための化粧品でもあります。


 

世界で波紋を呼ぶ宗教問題。ロヒンギャの苦難


信仰心があついミャンマーの人々。多民族国家であるがゆえに、文化や宗教の違いから民族同士の対立が生まれることもあります。近年、特に問題になっているのは、ロヒンギャの難民問題です。


ロヒンギャはミャンマー西部のラカイン州に住むベンガル系の民族で、その多くがイスラム教を信仰するムスリムです。彼らがこの地に定住したのは19世紀頃と言われていますが、いまだにミャンマー国民として認められておらず、135の民族の中にも数えられていません。ラカイン州には仏教徒であるラカイン族がいて、度々ロヒンギャと対立していましたが、ラカイン族の女性が暴行された事件を発端に、深刻な争いに発展。10万人以上のロヒンギャが国内難民となってしまいます。


さらなる悲劇を生んだのは、2017年の国軍、警察、ラカイン人の民兵によるロヒンギャ掃討作戦。これにより、過去最大規模の難民が発生。同時に、ロヒンギャに対する非人道的な迫害が続き、子どもを含む無数のロヒンギャの命が犠牲になりました。このような深刻な事態に、国際社会は「民族浄化」だと批判しますが、政府は治安部隊を擁護し、状況を打開できないアウンサン・スーチー氏に対しても各国メディアから落胆の声が上がりました。


この事件の根底には、ロヒンギャへの強い差別意識があります。軍事政権時代に、ロヒンギャは先住民族リストから外され、これまで暫定的な在留許可証だけで暮らしてきました。イスラム勢力の拡大や民族の独立運動で国が分裂することに危機感を感じる国軍側の思惑もあり、その時々の政府の都合で権利を奪われ、翻弄されてきたのがロヒンギャの人々です。ヤンゴンでは、過激派の仏教徒が「反ロヒンギャ運動」を展開するなど、宗教間での溝の深さも窺えます。ロヒンギャ難民の多くは行き場を失い、問題は長期化しています。


 

ミャンマーの歴史について



ビルマ族が興した王朝の栄枯盛衰


かつて「ビルマ」と呼ばれていたミャンマー。シルクロードの舞台であったアジア大陸部において、さまざまな民族が行き交い、小さな国の興亡を繰り返した後、11世紀にビルマ族がパガン王朝という王国をつくったことがことの始まりです。


パガン王朝は、仏教文化を繁栄させ、重要な世界遺産となる遺跡群を残しましたが、13世紀の蒙古の侵略により滅びてしまいます。その後、再びビルマ族が王朝をつくり、ヤンゴンを都としますが、19世紀に入ると、イギリスとの3度の戦争で全領土を失い、長い植民地時代を経験することになります。


建国後の不調和から生まれた軍事政権


第二次世界大戦が起こると、変革のときが訪れます。大戦中に侵攻してきた日本軍の力を借り、アウンサン将軍が独立軍を強化し、イギリス軍を追い払います。その後、日本軍が支配することになったため、今度は独立を条件にイギリスと協力し、日本軍は敗走。アウンサン将軍は暗殺されてしまうものの、翌1948年に「ビルマ連邦」が誕生します。


しかし、ビルマ族を中心に制定され、一部の民族にだけ自治権を認めた憲法は、他の民族に不平等な内容で、独立後も民族間の争いが絶えませんでした。次第に議会制民主主義は機能しなくなり、治安が悪化する中、1962年に国軍による1回目のクーデターが起こります。


困窮する国民生活と高まる民主化運動


クーデター後のネウィン政権は、社会主義国家の確立を目指し、独裁的な体制をしきました。主要な産業を国有化し、外国資本を排除したため、国際社会から孤立してしまいます。自由は制限され、物資が不足し、国民生活にも打撃を与えました。


1988年、ついに国民の不満が頂点に達し、大規模な民主化運動が起こります。当時は冷戦末期、ソ連が崩壊へ向かい、世界各地で民主化に向けた動きが活発化しているときでした。このとき、たまたまミャンマーに帰郷していたアウンサン・スーチー氏が民主化運動のリーダーとして立ち上がったのも運命的な巡り合わせだったと言えるでしょう。


ネウィン政権は交代しますが、混乱は収まることがなく、国軍は2回目のクーデターで全権を握ります。同時期にスーチー氏は国民民主連盟(NLD)という政党を結成しますが、国家を分裂に導いた罪で自宅軟禁となります。さらに国軍は、一方的に国名を「ビルマ」から「ミャンマー」に変更。スーチー氏の軟禁期間中に開催された総選挙ではNLDが大勝しますが、この結果も国軍は無視し、軍政は長期化します。欧米諸国はスーチー氏を軟禁下に置いた軍政に抗議し、大規模な経済制裁を科したため、ミャンマーの経済状況は悪化の一途をたどりました。


民主主義政権の誕生。遅れてきた国への期待


困窮する経済状況を打開するため、ミャンマーはASEAN(東南アジア諸国連合)へ加入、軍政側も東南アジア諸国や日本から助言を受けながら、民主化への道を模索します。一方で、スーチー氏の軟禁生活は断続的に15 年間続きました。建国の父、アウンサン将軍の娘であるスーチー氏は、国民から絶大な期待を寄せられていることもあり、国軍は警戒していました。民主化運動をやめ、夫がいるイギリスに帰れば軟禁を解くと約束されていましたが、結局スーチー氏は一度も国外に出ず、意志を貫き通しました。


2010年、新憲法に基づく総選挙が実施され、スーチー氏は軟禁を解かれます。そして、2011年、国軍出身のテインセイン政権が誕生すると、ミャンマーは民政移管へ大きく転換していきます。経済の自由化が進んだことは、海外から高く評価され、次々と諸外国からの経済制裁も解かれました。そして、2015年の総選挙ではNLDが圧勝。1回目の国軍によるクーデター以降、半世紀ぶりに文民政権が誕生しました。


ミャンマーは「アジア最後のフロンティア」。長く続いた軍政下で、極端にモノが不足していました。安価な人件費に工場進出が続いただけではなく、約5000万人の未開発の消費市場に外国企業から投資が集中しました。ヤンゴンでは、オフィスビルや外資系ホテルの建設ラッシュが起こり、自動車が増え、スマートフォンも急速に普及。インフラの整備はまだ遅れているものの、これから人々の生活はもっと良くなると期待が膨らんでいました。


3度目のクーデターはなぜ起こったのか?


2021年2月1日、国軍による3度目のクーデターが起こり、世界に衝撃が走りました。大統領をはじめ、NLDの政権幹部は逮捕され、国軍から暫定的なミンスエ内閣が発足、ミンアウンフライン国軍総司令官の支配下に置かれました。


国軍の主張は、2015年に続きNLDが圧勝した2020年の総選挙に不正があったということ。再選挙の実施を求めました。さらに、スーチー氏に対し17の罪状で訴追し、長期の禁固刑で政治生命を奪おうとしています。


今回のクーデターの背景には、憲法改正へと動くNLD政権に対する反発があります。現行の憲法では、国軍にさまざまな特権が与えられ、外国籍の家族をもつものは大統領になれないなど、明らかにスーチー氏を意識した制約も設けられていました。これに対抗し、NLDは議会で国家顧問法を成立させ、スーチー氏は国家顧問となり、実質上の政権トップに立ちます。また、国軍の管理体制を変える政策も打ち出していました。


国軍は、ミャンマーに秩序をもたらす自らの役割を常に主張してきました。民族間の対立や少数民族の反政府運動、治安の悪化...国の分裂を防ぐには、国軍によるコントロールが必要という強い信念を持っています。それが危うくなる状況を阻止したいという思いは少なからずあったことでしょう。しかし、そのやり方は強引で、民主化後もなお、国軍の影響力が強い歪な政治体制を生んでいます。


もう後戻りはしたくない。広がる抗議デモ


過去2回のクーデターと今回が大きく異なるのは、2011年以降、人々の暮らし向きが変わり、国民の自由に対する意識が高まったこと。報道への規制が緩み、さまざまな民間メディアが登場したことで、一般人がアクセスできる情報量も大幅に増えていたのです。


若者たちを中心に、SNSを駆使した抗議活動は、またたく間に勢いを増していきました。首都ネピドーでは大規模な市民デモが行われ、ヤンゴンでは経済活動を麻痺させるための「沈黙のストライキ」が呼びかけられました。このような市民の動きに対して、国軍は弾圧を強化し、これまで1500人以上の市民が殺害されていることが伝えられています。また、民主化活動家をはじめ、国軍に批判的な知識人やジャーナリストの拘束も続いています。


現在、ミャンマーでは失業者が急増し、国民生活は圧迫されています。医師や看護師、教師など公務員による「市民不服従運動」はミャンマー全土に広がり、医療や教育など生活基盤も揺らいでいます。過酷な状況にもかかわらず、ミャンマーの人々が強固な意志を保ち続けていられるのはなぜなのでしょう。多くの人々が国軍支配の過去には戻らないことを決意し、国民のための民主主義を取り戻そうとしていることは確かです。



 

参考文献--------------------------------------------------

ミャンマー政変-クーデターの深層を探る 北川成史著 ちくま新書

ミャンマーが見えてくる パゴダと民主化 田島高志著 サイマル出版会

ミャンマー いま、いちばん知りたい国 中村羊一郎著 東京新聞


​最新の投稿

bottom of page